鎧兜とアイス・ココア

ラケットにガットが張り上がるまでの30分かそこらの間に朝食を済ませるため,僕は適当な店を探していた.
「左か右に曲がれば,モス・バーガーがあったはずだ」と思って,僕は左に曲がってみたが,伸びをして先を見渡してもそれらしきものは見当たらなかった.
ふと横を見ると,民家がそののまま居酒屋を経営しているような店が立ち並ぶ,時代から取り残されて裏ぶれてしまったような細道が続いていた.
曲がり角からすぐの所に小さな黒板付きの立て看板があり,「Coffee!」と書いてあった.時間も無かったし,何となく惹かれるものがあった僕はそこで朝食をとることにした──
店に入ると,女店主が引田天功のようなメイクで出迎えた.彼女が一人で切り盛りしている店のようだった.どう若く見積もっても50歳前後には達していそうだったが,あと15年前ならなかなかに美しい女性であったろうと推測された.
僕はカウンター席に座って,ガーリック・トーストとアイス・ココアを注文した.住んでいる場所や,今日何するのか,といった事をいくつか訊かれ,それにまつわる世間話を交わした.愛想のいい人だった.
向かいの窓枠にはカルアとグレナデン・シラップが立ててあった.いわゆる,「昼はカフェーで夜はバー」といった類の店であるようだった.インテリアは一風変わっていて,カウンターの向かいの壁には,黒人カップルの写真,モディリアーニピカソを4:1で会わせたようなタッチの女性の絵画などがかかり,壁側の席の端には茶釜のセットらしきものが置いてあった.
極めつけは,店に入って正面奥の戦国武将の具足一式の置物だった.この一点で,この店は僕の知るどんなバー,カフェとも完全に印象を異にしていた.
僕は「インテリアがおもしろいですね.………特に,その鎧兜とか」と言うと,店主はとても嬉しそうな顔をして,「そうなの.これが一番気に入ってるの」と,声を弾ませた.朝のやわらかな日射しの中,週末の午前の親密な空気が流れた.
「彼女はいるの?」と店主が尋ねた.いません,と僕が即座に答えると,店主は大層おどろいたような顔をして,「じゃあがんばらなくっちゃ」と言った.僕ぐらいの年頃で彼女が居ないというのは,あまり健全な事とは言えない,というのが彼女にとっての一般的な感覚であるようだった.東京大学理科一類という環境ではあまり意識される事が無いが,大部分の世間に置いて,その感覚は正しいのだろう.
アイス・ココアを飲んでいると,注文したガーリック・トーストが出て来た.丁寧に,食べやすいサイズに切り分けてあったが,味はまあまあだった.僕にしてみれば,塩味が少し足りなかったし,トーストはトースターを使うよりフライパンで焼いた方が香ばしく仕上がるのだ.僕は塩をふりかけて,「トーストはフライパンで焼いた方が美味しいですよ」と言おうかと思ったがやめた.
僕はもう結構な時間就労していて,そのせいでまた留年しそうだと言うと,彼女は,利用されているだけだからすぐにやめなさいと言った.気持ちのいい割り切り方だった.
気付くとガットが張り上がる時間だったので,僕は急いでトーストを口に入れて立ち上がった.トーストとココアにしてはいささか高い会計だったが,彼女もそれを認識しているようで,あるいは少しすまなそうな様子だった.僕がTシャツのまま外に出ようとすると,彼女は寒いからジャケットを着ていきなさいと言った.僕は外でジャケットを着て,テニスショップに向かって歩きながら,彼女のこれまでの人生に思いを馳せた.