トーキョー・シーブリーズ

葛西臨海公園

夜23時から6時間に渡る作業で,僕はあらかたの差し迫ったタスクを消化した.成果広告をサイトに実装するという作業は二時間ほどで終わってしまったが,その後の時間はまたもデザインだった.ほぼ0に等しい素材と曖昧な要求で,場合によっては2,3日でいくつも画像を作るということの繰り返しに僕はいい加減辟易していた.それでも作らない訳にはいかない.やれやれ.
スムースな夜だった.期限に迫られなくともこのモードに入れれば,とも思ったが,結局世の中には計画的に物事を遂行する事ができる人間とそうでない人間の二種類しかいなくて,僕はどう考えたって後者だった.

デザインし終わった画像をmixiのフォトアルバムに追加して,僕はしばし物思いに耽った.これを見た誰かに何らかの情動を引き起こしたり,あるいは仕事のオファーをもらいたいという欲求は,少なくとも今はまったく無かった.ただ,自分の少なからぬ時間と精神力を要して作り出された物が並んでいるのを眺めるのは悪い気分ではなかった.
また,僕は北海道に行った友人たちの事を考えた.予定では僕もその車に乗って北海道を旅していたはずだった.出発の2,3日前にさしたる理由も無く決まった旅行.そういった流れに任せた自由は自分の領分だと思っていた僕は,最近の自身の生活を振り返って強い疑念を感じざるを得なかった.荒らしの前の海に立つ,静かな,だが確実に荒波へと豹変するであろう白いさざ波のような思いが僕の胸や頭に満ちていた.「漂泊の思ひやまず」.僕は芭蕉の一節を引用した.最早部屋の中でじっとしていることは出来なかった.

僕は葛西臨海公園を目指す事にした.距離的にも,気分的にも適当であったし,驚いた事にもう10年近くも過去になってしまった,修学旅行で訪れた場所だと言う事が決め手だった.最近僕がよく考えていたのは,現実的に存在している人や土地といった精神的ルーツを自分が持ち合わせていないということだった.4,5年単位で移住を繰り返して来た僕には,故郷と呼べる土地が無かった.どの場所もそこそこ懐かしく,そしてどこかよそよそしい.成長を共にした幼なじみも居ない.その事を毎日のように意識している今,一度訪れただけのその場所さえも,とても意味深いように感じられた.

エンジンはキック一発で始動した.既にリザーブに切り替えていたガソリンタンクに24時間営業のスタンドで給油して,僕は東京の海へと向かった.

葛西臨海公園へは2,3回曲がるだけで着くはずだったが,僕は何度か道を間違えた.
気付くと,そこは以前ある女の子と歩いた道だった.僕はその偶然にどう情動していいのか少し困惑した.
目的地への道は空中へと続いていた.そこから眼下に広がる朝日を反射する海を見ていると,困惑は走る風に流されて綺麗に消えていった.

その後も何度か最短経路を外れたものの,まだ早朝の空気が残るうちに僕は葛西臨海公園に到着した.
海辺に向かって歩いていると,今の自分の性質をかなり大部分で説明するであろう,小学校6年時に経験したたくさんのことが頭に去来した.引っ越しがあと一年遅かっただけでも,今の自分はかなり変わった人間になっていただろう.それだけその一年間は僕にとって変革の時期だった.それはいい変革だったろうかそれとも.しかし,過去自分の身に起こった事には全て好意的肯定的解釈を与えることを人生の数少ない決まりとしている僕は,いつも通りその考えを拭い去った.これは小学校中学年にナルニア国物語を読んでから今に至るまでずっと僕が引用し続けている考えだ.でも,これももしかしたら小学六年の始めに引っ越したからなのかもしれない.そう考えなければ生きていけなかった,という訳でもなかったが.
海は白く濁っていた.沖縄で4年間を過ごした僕の目には,どうも沖縄以外の海は醜く映るようだった.

海辺に着いた僕はブーツを脱いで裸足になり(これは絶対に必要な行為だ),朝露の残る芝生の上に寝転んだ.清掃員以外にほとんど人もいない公園は,思っていたよりずっと静かで,波と海風と水鳥の声以外は殆ど何も聞こえなかった.
波音に耳を傾けながら低く速く流れる雲を眺めていると,父がよく釣りに連れて行ってくれた事を思い出した.毎週行っていたこともある.父もずっと釣りに行っていないと行っていたし,また行きたいな,と僕は思った.考えてみれば,こんなに自由に過ごせるのも今年で最後かもしれなかった.そう考えると,特に生産的なことをするでもなく東京に張り付いて,故郷でないからという理由で親元に赴くのを敬遠し続けているのはとても申し訳ない事のような気がした.だから僕は,暇になったらすぐ父母の元へ行こうと決め,その場で電話をかけることにした.

電話には父が出た.いい思いつきだと思ったのに,それを伝えようとすると言葉に詰まる自分がいた.うちは代々思っている事を他人に伝えるのが苦手な家系なのだ.あるいはそれはもっと民族的な性質とか根深いものかもしれない.とにかく僕はそれが苦手なのだ.
下手な言葉をツギハギして,ものの数分で僕は電話を切った.今週も来週もタスクは予定されていたが,この約束を反古にするようなら僕はもう人として駄目だと思った.

僕はまた芝生に寝転がって,空を見上げて考え事をした.この空の下では,一つだけ放り出して来たそのタスクのことなんてもうどうでもいいような気がした.
居心地の良い,愛すべき僕の窖に籠っている時には,タスクの指示降りや,アニメや,ニコニコ動画の面白動画や,2ちゃんねるの祭りといった,諸々の外部の刺激を受動し,それにただ反応するだけの生活にならざるを得ない.こうして能動的に考えを巡らさなければ,こんな重んずるべき事柄も看過,というか意識のステージに昇る事すらなかったのだ.それだけで十分,今日ここに来るべきだったのだと思えた.
カモメが一羽,視界を横切った.僕は立ち上がってまた海を見た.
朝のそれから昼間のそれへと変化しつつ日差しを反射して,水面は眩しく光っていた.水は濁っていても,表面の輝きは沖縄の海のそれと何ら変わらないじゃないか,と僕は思った.「彼女を失望させる事はしたくない」僕は踵を返して,海辺を後にした.