夜明け前

朝焼け

その日は焼き肉だった.僕の身体,特に背中は切実に肉を必要としていた.僕はハラミを生で喰らった.
HUBで4,5杯カクテルとウイスキーを飲んだ後だったから,帰路についた僕はかなり酔っていた.そして無性に愛すべき屋上に行きたかった.
まだ小さな雨粒がまばらに落ちてきていた.僕はここから見る夜景がどんな夜景よりも好きだった.10階そこそこで大した高さではないが,周りの建物がもっと大した高さではなかったから,東京の街が隅まで見渡せる.池袋も新宿も東京タワーも富士山も見える.僕は横になって夜景を眺め,雨粒を受けながら一時間程眠った.

ベッドに戻った僕が再び目を覚ましたのは3時前だった.僕はそのままベッドから起きる事なく,その日見た夢について考えていた.最近の僕は毎日のように夢を見る.
その夢は今日の出来事を色濃く反映した内容だった.登場人物の多い夢で知らない人も出て来た.だが,僕はそこに登場しなかった人の事を考えていた.それは僕が僕に提示した,明確な,一つの答えだった.思うところもあったがもうそれは起こってしまったことなのだ.僕はすんなりとそれを受け入れた.ある女が使った台詞の中でも特に印象的だった「縁が無かった」という言葉を僕は引用した.
視界がおもむろにアップデートされた.そこはもう新しい世界だった.
僕が部屋に居る時も居ない時も,ほぼ常に開け放たれている窓から外に目をやると,未明の空がとても美しい群青色をたたえていた.雨上がりだ.夜明けはきっと素晴らしいものになるだろう.僕はまた屋上に行きたくなった.

ベッドから起き上がる時,背中がまた軋んだ.さっき食べた肉は,さすがにまだ,僕の身体の一部とはなっていないようだった.当たり前だ,僕はビスケット・オリバじゃない.小学生だってわかる.
屋上には昨日の僕が置き忘れて行ったライターが残っていた.やれやれ.そして,夜明けが始まった.
昨日街に雨を降らせた雲が,一面に低く流れていた.それらの雲は,既にまだ姿を見せない太陽の光で,端々が燃え盛るようなオレンジ色をしていた.思った通りの美しい夜明けだった.
東の空が黄色く色あせ,もう見頃を過ぎたかと考え始めた0430hrs.頃,太陽の先端が地平線の上に顔を出した.それはやけに北から出て来た.そういえば夏至の頃かもしれなかった.そこから数分間で空が見せた表情は本当に素晴らしかった.東の空は黄金色に輝き,低く垂れ込めた雲の隙間一つひとつからも,その神々しい光が漏れ出て来ていた.雲の端は,それとは全く違う赤みを帯びたヴァイオレットに染められ,光がまだ届かない中天から西の空一面は,太陽が出る前の朝焼けの色をしていた.
それからずっと僕は太陽を観ていた.オフィスと自室と病室に閉じこもっていた僕は,太陽を直接目にするのが随分久しぶりであるような気がした.多分先週の月曜日以来だと思う.意識的に見るという意味では,2,3ヶ月ぶりだった.
僕は太陽について考えた.この世界のありとあらゆるものは太陽から作られている.僕のこの思考も,身体も,その糧としている食物はすべからく光合成の上に成り立っている.下を走る車が使うガソリンもその残滓であり,林立する建物も元を辿れば全て太陽のエネルギーで作られたのだった.そう,比喩でもなんでもなく全ては太陽からつくられたのだ.ある意味において,この世界のすべては太陽のメタファーだ.
観れば観る程太陽は不思議な物体だった.焦点をあわせ続けていると,そのなによりも力強い光は円形の中でギラギラと蠢き続けた.そういえば小学生の頃はよくこうして太陽を飽きる事無く眺め続けたものだった.こんな不思議なものが毎日昇ってくるのに,不思議なものを求めて美術館に行ったり,本を読んだり,音楽を聴いたりするのはナンセンスだとすら思えた.
ほぼ真横から差す光によって,いくつかのビルには他のビルの作る影がくっきりと描かれていた.僕のシルエットも,きっとどこかのビルに描かれている.僕はなんだか嬉しくなった.土曜日の朝,週末の始まりだ.僕は今日一日に思いを馳せた.予定は無かったがやるべきことはたくさんあった.太陽の仰角が10° ぐらい増したあたりで僕は立ち上がり,そして今日一日の終わりに観る映画の事を考えた.ふと僕は,昼飯は焼き肉でも悪くないな,と思った.