出発、頭丸めて

昼下がりの中央線快速東京行きの座席に腰かけて,僕は深くゆっくりと大きな溜め息をついた.人はなぜ溜め息をつくのだろう?
暗澹たる思考は脳から染み出して喉を熱く苛みながら伝い,肺の底に泥のように重たい瘴気を充満させていく.新鮮な空気を送り込んで,それを無理やり追い出さなければいけない.少なくとも僕は今そうしなければならなかった.
その溜め息は,どこか遠くの鬱蒼とした森にある,誰も知らない深くて暗くてジメジメした井戸から漏れ出てくる風のように聞こえた.僕は,うつ病が脳の一部に栄養が行き渡らない肉体的な疾患に過ぎないという学説と溜め息との間にあるかもしれない関連性についてぼんやりと考えた.
車内放送のディスプレイは,新政権の組閣人事調整難航と国産ロケット打ち上げ成功のニュースを報じていた.動いている映像でニュースを見るのもずいぶん久しぶりだった.口の曲がった首相は既に過去の人となり,僕のよく知っているロケットのコードネームはいつの間にかインクリメントされていた.あるいは攻撃機から爆撃機に宗旨変えしたのかもしれない.
僕が社会から忘れ去られた廃棄物処理場のような大学の地下で,廃棄物のように日々を送りながら電子的で決定的な玉手箱とよろしくやっている間に,世界ではたくさんのことが終わり,そして始まってしまっていたのだった.冷徹な不可逆性をもって.
鳩山首相?H2-B?やれやれ.
電車に乗り合わせている人々はそれぞれの日常を営んでいるように見えた.その中で,僕は一人行き先を決めずに旅に出ようとしている.
だが,人が日常と非日常のどちら側にいるか,他人にどうしてわかるだろう?乗客の中に,先刻余命一ヶ月と宣告を受けたばかりの人や,あるいは,致死的な凶器を懐に,これから誰かの命を奪いに行こうとしている人がいるのかもしれない.誰かの日常は誰かの非日常の中にあり,誰かの非日常は誰かの日常の中に潜んでいるのだ.思想的なレジスタンスのように.しかし僕の数ヶ月間はどうだろう?何かを思想しながら地下に潜んでいたわけではない.本当にただはいつくばっていただけだ.廃棄物のように.
だから僕は追いつかねばならないのだ.世界に.
社会的な廃棄物は廃棄物らしい恰好をしているべきだと考えて,僕は努めて廃棄物らしい恰好をしていた.魚市場に売れ残った干しわかめのように洗いざらしの頭を風になびかせ,以前は時々剃っていた鬚も伸びるがままにさせておいた.しかし,もうそのような記号的な在り方をやめてもいい頃合いだな,と僕は車内で漠然と思った.
だから,僕は東京駅に着くと,まっすぐにインフォメーションに行って,コンダクターの女性に向かってなるべくビジネスライクに
「髪が切りたいんですが」
と話しかけた.コンダクターは美しい顔立ちをしていたが,人を寄せ付けない所の無い,感じの良い女性だった.そして,その種の職業のエキスパートに見られる中立的な笑みを頬にたたえていた.「31歳」と僕は思った.
女性は考える間もなく,改札の外にある千円均一のチェーンの床屋への道筋を淡々と説明し始めた.その中立的な笑みが絶やさないまま.
頂点に落としたボールが曲がりくねったレール上を転がり落ちていく知育玩具のように,その質問は然るべき経路を辿って適切に処理されていき,問題なく終着地点に「コトン」と落ちた.
僕は礼を言ってその場を離れながら,干しわかめのような頭をした男が床屋を求めて尋ねてくることについて,彼女がとりわけ反応を示さなかったことを残念に思った.
手強い女だったのだろうか,それともそれは彼女の日常の範囲を大きく逸脱しないことだったのだろうか?
改札を出て床屋に向かう僕の胸は,遠足に向かう少年のように高鳴っていた.少なくともそう思っていた.床屋の扉に手をかけるまでは.だがその時に気付いたのは,それが紛れもない恐怖であるということだった.「怖気づいているのか?だが無理も無い.今までしたことのないことをするのだから」僕は自分を嘲笑いながら,ドアを押し開けた.
すぐに順番が回ってきて,オーダーが訊かれた.僕は間髪入れずに
「坊主にしてください」
と言った.30過ぎの痩身で人懐っこそうな床屋は,
「1ミリと3ミリと5ミリがありますが」と聞いた.
もちろん僕は
「1ミリでお願いします」
と言った.中途半端が一番良くないのだ.
「えーと,お坊さん一歩手前みたいなってしまいますけど」
と,床屋は申し訳なさそうな顔をした.干しわかめのような頭をした男がとっとと丸坊主にしろと要求するのは,あまり彼の日常の範囲内の出来事では無いらしかった.
作業の準備を始めた床屋に
「1ミリと3ミリと5ミリというのはそんなに違うのですか?」
と訊いてみた.僕にはジャガーとレパードほどの違いも感じられなかったからだ.
床屋は少し考えてから,
「確かにそんなに変わりませんね」
と言った.
シンプルでプラクティカルな重量感を持ったバリカンが通ると,僕の髪の毛ははらはらと自然に落下していった.そこにあったこと自体が出来の悪い嘘だったみたいに.
床屋のBGMは突然ローレル・マセの「ディン・ドン・ザ・ウィッチ・イズ・デッド」を奏で始めた.映画「オズの魔法使い」の劇中歌のカヴァーだ.西の悪しき魔女の死を高らかに告げる脚韻を多用した歌詞の上で,ローレルの極上にスリリングなディクションが踊る.ローレル・マセは僕の最も好きなジャズ・ヴォーカリストの一人だ.星の数ほどいるジャズ・ヴォーカリストの中で,彼女の曲がたまたま入った店で流れるという幸運をひとしきり喜んだところで,僕は「冷静になってみるとなんてこの場に不似合いな曲だろう」と思った.いや,より正確には「この曲を聴くのになんて不似合いな場所なのだろう」と思った.僕は頭の中で,この場により相応しくない音楽を検索したが,なかなか出てこなかった.千円均一の床屋にかかっているべき音楽は,J-Popや演歌や歌謡曲やせめてクラシックであって,きらびやかなヴォーカル・ジャズではない.
時と場合によっては怒りに変わりそうな感情だったが,その間にも僕の髪の毛は厳然たる不可逆性をもって淡々と落下していき,僕はとりあえずその感情を違和感のまま保留にしておき,落下していく髪の毛を眺めた.
床屋は僕のバックパックがオルトリーブ製であることを目敏く見つけて,
「自転車に乗るんですよね?日焼けにはくれぐれも気をつけてください.」
と言った.それから僕は,髪の毛を全部刈ってしまうのが生まれて初めてであることを告げ,坊主の心構えについていくつかレクチュアを受けた.
頭皮は弱いから日の下では帽子をかぶらなくてはいけない.ボディーソープは良くない.頭をぶつけると痛い.日光には本当に気をつけろ.頭をぶつけると本当に痛いし傷が残る…
基本的な作業はものの数十秒で終わってしまったが,床屋は執拗と言っても差し支えないほど念入りにバリカンを走らせ続けた.これから僕の頭の上で,サッカーのワールドカップかテニスの全英オープンが行われることを想定しているのかもしれない.
僕は,人生のほとんどの期間において,同性の中では比較的長い髪を維持し続けていて,それはその方が自分の顔に合っていると思っていたからだった.しかし実際に髪の毛がすべて無くなってしまった自分を鏡で見ると,違和感はほとんど無かった.むしろ鏡の中の顔は,髪の毛が全て無くなってしまうのをずっと待っていたようにすら見えた.悪くない.
僕は,床屋の扉に手をかけたときに生じた感情が怖れだったことを,とても喜ばしく思った.
床屋を出て,僕は切符を買いに向かった.そろそろある程度行き先を決めなければならない.「とりあえず西へ」と僕は思った.四国か,山陰か,そのあたりの人々から忘れ去られたような寂しい所が似つかわしい.非決定性を残すために,僕は姫路までの新幹線の切符を買った.
発車までだいぶ時間があったので,改札の中にある本屋に行くことにした.僕は村上春樹の「ノルウェイの森」をどうしてももう一度読みたかったが,彼の長編の中でそれだけが本棚から欠落していた.仕方なく,僕は「東京奇譚集」を手に取った.彼の短編集はまだ読んだことが無かったし,村上春樹が「実際に出会った不思議な出来事」を語る冒頭部分がとても興味を惹いた.他に目星をつけていた「経済ってそういうことだったのか会議」は置いていなかったし,以前から読みたいと思っていた鬼頭莫宏短編集などの漫画も今はどうしても読む気になれなかった.
キオスクでB.L.T.とサントリー・プレミアム・モルツを買った.プラスチック製のカモノハシのような電車が音もなくホームに滑り込んでくる.僕は最前車両の最前席に腰かけて,B.L.T.をほおばり,それをビールで流し込む.
流れ出す国際フォーラム.不可逆的進行.
僕はまた大きく深い溜め息をついた.
僕は今,そうしなければならないのだ.