杏仁豆腐 with slight alcohol

1900hrs.
目覚めた僕はとても腹が減っていた.
最近の僕の食欲は常軌を逸していた.牛角食堂で,一回の食事で二食分食べたと言ったら,暴飲暴食・金と時間の浪費仲間のWでさえ「は?」と聞き返した程である.
だが思い返してみると,アメフトサークルのYとつるんでいた大学一年の頃は,渋谷でペッパーランチを食べて,山の手線の車両内で共に言い知れぬ物足りなさを共有し,結局巣鴨駅で降りてもう一食ペッパーランチを喰らうと言うようなこともやっていたから,現状はさして僕の人生に於いて特殊なケースでは無いようにも思えた.

近所の料理屋を数分間頭の中で検索,検討した後,「とんかつでも喰うか」と僕は思った.近所には,とんかつというカテゴリの中ではいささか値の張るとんかつ専門店があるのだ.

手持ちの現金がなかったため,僕はコンビニエンス・ストアに寄った.十分な金を手に入れた僕は,店内をぶらぶらしているうちに,気付くと両手にいっぱいの食品を手にしていた.

…!?

棚に並んでいる商品がすべてうまそうに見える,食べたくなる.僕はとても混乱した.とんかつをやめてここで夕食を済ます事に吝かではなかったが,夕食を吟味しようと思えば思うほど,自分が何を食べたいのか分からなくなった.これはここ一年ほどなかった現象である.最近の僕は食べたい物のヴィジョンが明確に脳内で像を結び,迷うことがほとんど無かったのだ.

オーケー,冷静になろう.
僕は頭の中で一つの方程式を組み立てた.

(購買意欲) ∝ (空腹度) × (食品魅力関数)

僕が明確に認識出来るのは左辺のみであり,それがある一定の値を超えると,僕は「欲しい」と思う.食品魅力関数が食品・その日の気候等によりある値に定まったとしよう.その上で空腹度→∞とすれば,最早僕は食品魅力関数の大小を推し量ることができない.
なんのことはない,「腹が減っていればなんでもうまそうに見える」ということを表した式である.「当たり前のことを難しそうに言う」,これが数学の本質である.数学が見せる結論の様相は感覚的には当たり前の事である,いや,そうでなければならない.しかし,その面倒の見返りに,我々は厳密性という金科玉条の武器を手に入れ,学問の世界で振りかざす事がことが出来るのだ.

そうして僕が得た結論は「なんでもいいからとりあえず腹を満たせ」だった.
したがって,僕はコンビニエンス・ストアを後にし,当初の予定通り件のとんかつ屋に足を踏み入れた.

僕は生ビールとひれかつ定食を注文した.

(生ビールのうまさ) ∝ (空腹度)^l × (水分枯渇度)^m × (疲労度)^n

という立式が可能であり,l,m,n ≧ 1 であることには,何人にも異論が無いと思われるが,僕は l > mなのではないかと考えている.つまり,そのビールは最高にうまかった.
運ばれて来たお通しのピーナッツをかじりながら,僕は店の親父の動きを眺めていた.いつ見ても面白い.そこには不思議なユーモアがあった.
僕のとんかつはなかなか揚がらなかった.鍋の油は,どう見ても揚げ物の適温とされる170℃を下回っているように見えたが,それがこの店のやり方であるなら,僕が異論を挟む余地はない.僕は二杯目のビールを注文した.
二杯目のビールを飲みながら,僕はこの店の価格の構成を考えた.何かしら高級なブランド豚を使っているのだろうか?小麦粉,その他で高級な素材を使っているのだろうか,はたまたキャベツ・ご飯お替わり自由ということがそれほどの価値を持つのだろうか──
ふと脇を見ると,瓶に生けられた花が目についた.花はみずみずしく,今日生けられた物である事は明らかだった.僕は,この花ととんかつの価格の関連性について考察した.チェーンの牛丼屋にはもちろんこのような物は存在しないだろう.しかし,この花にいかほどの価値があるだろう?そもそもこの花が目に入っている人はいかほどだろう?と.しかし,金持ちと言うものはこういう些細なところに価値を見いだし,その店,引いてはそこに金を投げる自分に納得するのかもしれない.結局大学生にしては少し金を持っている程度の僕には何の結論も得られなかった.学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し.学べ.

僕のとんかつが揚がった.店主は僕の手持ち無沙汰な感じが伝わってしまっていたのか,申し訳無さそうに謝った.僕は甘藍の千切りを一回お替わりし,ご飯を二杯お替わりした.

コンビニエンス・ストアに戻った僕の思考はとてもクリアだった.いつものように,何が食べたいのか,何を食べるべきなのか,明確に弁別出来た.僕は塩プリンとチョコチップの入った菓子パンを二種類と牛乳を一リットル買った.

家に帰った僕はアマレット・ミルクを飲みながら買って来たものを食べた.ディサローノだかなんだか知らないが,アマレット・ミルクとはすなわち「杏仁豆腐(with slight alcohol)」である.カクテルとは半分は女の子をベッドに誘うため,もう半分は自分に酔うためのものであり,何やら複雑な名前を冠していようが,実態はもっとシンプルな物である.しかしその複雑な名前によって我々は「スタイリッシュ」という金科玉条の武器を手に入れ,夜の世界で振りかざす事がことが出来るのだ.

僕は買って来た物を全て平らげてしまった.そして杏仁豆腐(with slight alcohol)をすすりながら,これぐらいの酔えばいい仕事が出来そうだなと思った.